ご近所 歴史 再発見!その6
晴れ渡る空と
 *雪月下*ご来訪10,000hit記念企画!
 
 というわけで、今回のご近所歴史 再発見!その6は、拙サイトへの多数のご来訪に感謝しつつ、『郡長正140回忌 墓前供養』をレポートしたいと思います。
 
 郡長正。
 雪月下へご来訪いただく皆様には、既に馴染みのあるお名前かと思います。
 言わずと知れた、会津藩家老・萱野権兵衛の二男であり、遠く福岡は豊津の地で、はからずも父と同じく切腹し命を絶った、16歳の少年です。
 なぜ切腹に至ったかは諸説あるようですが、一般論として言われているのはこう。
 食事が口に合わないことを手紙に書いたところ、それを諌める手紙が母から届き、その手紙を落としたことでそのことが明るみに出て、会津藩士の面目を保つために責を負って自害した。
 ただ、私個人としては、斗南での生活がいかに厳しく苦しいものだったか、その中で餓死者すらでた事実を知っているだけに、上記の一般論はなんとなくしっくりきません。
 現在は、父である萱野権兵衛と子の郡長正が、同じく切腹して果てたことに着想を得た創作が入っているのではないかとの説も出ています。
 そちらの方が事実に近いような気がしています。
 この辺りの話が気になられる方は、鵬和出版の「会津少年郡長正 自刃の真相」宇都宮泰長 編著をお読みいただくとよいかと思います。
 

 さて、豊津では、郡長正の命日に当たる5月1日に、豊津郷土史会が中心となって、今でも欠かさず墓前供養が行われています。
 今まではなかなか都合が合わずに行くことが叶いませんでしたが、今年こそは!と心に誓って先日より動き始めました。
 
 まずは情報を集めなければ、そう考えた私は、インターネットで検索をかけ、情報を集めて見ました。
 しかし、5月1日に執り行われるということ、墓所の管理は「阿弥陀寺」が行っておられるということはわかったものの、それ以外の詳細は見つかりません。
 その「阿弥陀寺」の連絡先が分かれば…と104に問い合わせてみるも、こちらも届がないとのこと。
 場所については、以前一度だけ墓参へ伺ったことがあるので何となるとしても、時間もわからなければ、一般人が行っていいものかどうかも不明。
 このままでは墓前祭へ参列することは無理かもしれない!
 
 次の手段として、役所に問い合わせることにして、みやこ町のHPへ行き、問合せ先に書いてあるメールアドレスへお尋ねのメールを送信。
 …が、こちらも1週間経っても返信はなし。
 届いているものやれ、スパムとして処理されているものやれ、それも分からず、かといって待っていても時間が過ぎるばかり。
 
 最後の手段として、直接電話で問い合わせることに。
 まずは、みやこ町役場の豊津支所へ電話してみる。
 そこで『博物館へ聞いてください』と言われ、今度は博物館へ電話。
 博物館では『豊津郷土史会』の方へ問い合わせてくださいと言われ、『豊津郷土史会』の方のご連絡先を伺いました。
 おぉ、今度は怖いくらい順調!
 
 そして『豊津郷土史会』の菊池様へとお電話を差し上げることに…。
 緊張しつつお電話をしましたら、快くお話を聞いていただき、墓前祭へ行けることになりました!
 
 菊池様には、墓前祭のご準備でお忙しい中、快く応対していただきました。
 この場を借りて、再度御礼を申し上げます。ありがとうございました!
 そういうわけで、今回の目的地は福岡県京都郡みやこ町豊津という場所になります。
 同じ福岡県と云えども、こちらは佐賀県に隣接する北筑後、あちらは北九州に近い。
 そう、遠いんです!
 しかも今回は5月1日という連休中、道が混まないわけがない!
 覚悟を決めた私は、愛車を駆り早朝5時過ぎに出発!
 ところが時間が早かったせいか、信じられないほどスムーズな道行で、ほんの1時間半程度で豊津へ到着していまいました。
 3時間は覚悟してきたのに!でも運転楽で嬉しい!

 墓前供養は9時からとのことでしたので、セブンイレブンで朝食を済ませてカメラやUstのためのiPhoneと予備電池などの準備を進め、粗方整ったところで現地の甲塚墓地へ向かいました。
 会場では白いテントが張られ、長机が出され、着々と準備が進んでいます。
 邪魔にならぬようにしつつ、まずは同じ墓地内にある『秋月藩士の墓』へ…。
秋月といえば『秋月の乱』が頭に浮かびます。
なにぶん秋月の近くが棲みかですし、祖母方の祖先に秋月藩士がいるらしく、何かと馴染み深いもので…。

左の墓が『秋月の乱』で落命した秋月藩士17名の墓。
ぐるりと4面に名が刻まれていました。
(さすがに今回はお名前を控えてきておりません、すみません;)
この墓の右に案内の看板が立っています。
ここに秋月藩士が葬られている経緯が説明されています。

右の看板の内容を、下記に記しておきます。
  秋月藩士の墓

 この墓(むかって左)は、明治九年(一八七六)十月に起きた「秋月の乱」の戦死者十七名の墓です。
 明治初期、新政府による「秩禄処分」や「廃刀令」といった諸政策は、かつて武士であった人々には大変不満なものでした。とりわけ、西日本では彼ら「不平士族」が武力による反乱を起こしましたが、秋月の乱も、そういった士族反乱の一つでした。
 明治九年十月二十七日、旧秋月藩士二百余名は、旧豊津藩士に同調を求めるため、さらには長州の前原一誠と合流するため、同二十九日に豊津台地に入りました。しかし、秋月の期待とは裏腹に、豊津側が新政府に協力したことで、圧倒的に劣勢となった秋月側は、十七名の戦死者を出して撤退したのです。
 遺骸はこの場所に葬られ、翌年遺族らによって墓標が建てられました。
 それがこの「秋月藩士の墓」です。

みやこ町教育委員会
秋月藩士の墓に手を合わせた後、郡長正の墓所へ。
花が供えられ、パイプ椅子が並べられ、着々と準備が整いつつあります。
表側へ回り、始まるのをひたすら待つ…。
表にたてられた看板。
写真左手奥に郡長正の墓所があります。
画像奥に見えるテントが控室的なテント。
そのテントに翻る、会津の旗!
青空と、心地よい風。
九時になり、ご参列の皆様墓所へ。
読経が響く中、順番に焼香と合掌。
あまりお邪魔にならぬよう、端の方から撮影させていただいたり、手を合わせたりさせていただいたのですが、お声をかけていいただき墓前でも手を合わせることができました。
完全部外者なのに、ありがたいことでした…。
読経が済むと、ご住職でしょうか、お話があり、続いてみやこ町の町長や、会津若松市の副市長のご挨拶。
そして萱野権兵衛の三男・郡寛四郎の孫にあたる郡荘一郎氏よりご挨拶が…。
しめのご挨拶があり、墓前供養は終了。
みなさんでパイプ椅子を撤去され、歓談タイム?
墓所の傍らでは、郡荘一郎氏を囲んで、新聞社などの取材が行われておりました。

私は、もう一度墓前で手を合わせてから、墓所を撮影させていただきました。
たくさんの花が飾られ、春の暖かい光が降り注いで、前回とは打って変わって明るく見えました。
墓前の片づけが終ると、みなさん控えのテント前に集合。
それぞれに歓談される中、テント内の長机にはお抹茶と干菓子が並べられていきます。
ここでも、どうぞどうぞと席を勧められ、遠慮しつつもお抹茶にひかれて座る私;;
風が強くて冷たかったので、暖かいお抹茶が心と体に沁みわたっていく!
ほっかりした気分で席を立とうとしていると、今度は目の前におにぎりや卵焼きなどたくさんのお食事が!
本当に、会津にも豊津にも、何のゆかりも関係もないのに、こんなにもてなしていただいて、嬉しいやら、申し訳ないやら、ありがたいやら…!
残念ながら、墓前供養の直前に、朝食としておにぎりなど食べてしまっていたので満腹になっていました。
美味しそうなお料理を前に、惜しかったなぁと邪なことを思いつつ(笑)、せっかくなので白いおにぎりを一ついただきました。
その美味しいこと!
正直、お腹一杯でひとくちも無理!と思っていたのに、一個ぺろりと食べてしまいました。
美味しいご飯の魅力は、かくも恐ろしき!(笑

宴はまだまだ続いておりましたが、私の方はまだまだ後もあったためこの辺で失礼させていただきました。
食べるだけ食べて、まるで逃げるように…。(食い逃げ!?
後ろ髪をひかれつつ、簡単にでしたがご挨拶を済ませ、次に向かったのは『育徳館高校』
墓所から車で5分もかからない距離です。

正門から入り、駐車場に車を止めて、学校玄関の受け付けへ…。
ここでの目的は、『育徳館高校』の敷地内にあるという『郡長正記念庭園』の見学です。
見学させていただけないかとの申し入れに、快くご許可をいただきました。
早速校内散策です!
…とはいえ、何だかものすごく整備されています。
以前聞いた話では、『郡長正記念庭園』は中庭にあったとか。
しかし中庭はレンガタイルが敷き詰められ、庭らしきものは皆無。
整備された際、移設されたかもしれない…。
校内の案内板などはないため、また受付の方もわからないとの事だったので、とりあえず木々ある場所をぐるっと探して回る。


その途中、目に入ったのがこちら、黒門。
脇には黒門のいわれが書かれた、これまた立派な看板がありました。
読んだところ、大きくて立派なこの門は、かつての藩校『育徳館』の正門だったものらしいです。
郡長正もこの門をくぐって、育徳館へ通ったんでしょうか?
次に向かったのはこちら。
正門の脇に立つ薄いグリーンのレトロな建物。
旧制豊津中学校の講堂だった『思永館』だそうで、県の有形文化財に指定されているそうです。
これも立派な建物ですねぇ!

先ほどの黒門はこの建物の裏手、写真で言うと右奥の方にあります。

そしてその逆、画像左手に、目指すものがありました!
正門のすぐ脇。
木々に囲まれ、静かな場所です。
そこに『郡長正ゆかりの石』の立て札が…。
さらに奥には『郡長正ゆかりの石』の立派な石碑と、謂れの書かれた銅版でしょうか。
二つ並んでいます。
鶴ヶ城内の石と、萱野家の墓石の土台石を送ったと聞き及んでいるので、左が鶴ヶ城の石、右が萱野家の土台石だと思います。
さらに記念植樹されたらしく、会津高田梅の標も。
画像右の木が梅のようなので、たぶんこちらがそうかと思われます。
まだまだ小さな木でした。
石を贈る詞

少年武士 郡長正の
殉節に敬意をささげ
育徳館自刃の跡に
鶴城苑の古石を選(迸?)び
萱野家ゆかりの石を添え
道芳の■華として
出身の地会津の
名によって之を贈る

昭和三十一年十月十七日

会津若松市
ここまで回り、この日のレポートは終了です。
この場を借り、豊津郷土史会の菊池様、関係者の皆様には、改めて御礼を申し上げます。
来年も仕事などが入らなければ、また墓前に伺いたいと思います。
本当にありがとうございました!