「会津医師会報 第5巻第7号 会津戦争史-七-白虎隊物語二/相田泰三 著」に記述される
「日向内記は行方不明ではなく戸ノ口原にて戦い退却した」
という記述についての考察

先日手に入れた資料に、日向内記に関する驚くべき記述を発見した。
「会津医師会報 第5巻第7号」に収録されている「会津戦争史-七-白虎隊物語二」に相田泰三氏が記したもので、その記述内容はこうである。

「それは八月二十三日天寧寺町口から入城した原田克吉隊の一人高橋勝太郎の談話である。(※1)勝太郎は晩年郡長をつとめ、大正十一年に没した人で、子の誠二郎は陸軍中尉で日露戦争で戦死し、・・・(中略※2)・・・勝太郎の談話の内容は、日向内記は戸ノ口原で敵と戦ったが衆寡敵せず、隊員と共に赤井谷地方面へ退却し、その途中見えなくなり、隊員は或者は飯盛山方面に或者は背炙山方面へと分かれ、私は背炙山に登り、ついに入城した。というのである。」

一般に「日向内記は二十二日夜のうちに「食料調達」と言い置いて強清水方面へと去り、二十三日未明になっても帰隊せず行方不明、そのまま戦が勃発し、会津軍は敗走。士中二番隊のうち十九名が飯盛山(周辺)にて自刃して果て、一方日向内記は無事に鶴ヶ城へ入城し、その後白虎士中合同隊の隊長として籠城戦を戦った。」と言われている。

だがこの「高橋勝太郎」なる人物の談話はそれとは全く異なり、日向内記隊長は戦が始まる前に食糧調達と言って出掛けたまま行方不明になったのではなく、開戦時にはその場にあって、皆と共に戸ノ口原で戦い、その後引き上げる最中に行方不明になったと語っている。

ここでキーとなるのは「高橋勝太郎」なるこの談話の主。
戸ノ口原での戦況を知っており、尚且つ白虎士中二番隊の半隊頭だった原田克吉隊に属していたということは白虎士中二番隊の隊士ということになる。
原田克吉隊に属していたとすれば、戸ノ口原での戦闘時は前線に斥候に出ていた筈である。
ではその原田克吉隊のことを確認してみよう。

原田克吉隊として斥候に出ていた者を以下に挙げる。

半隊頭・原田克吉
嚮導・城取豊太郎
笹原伝太郎
遠山雄吉(雄午)
篠沢虎之助
有賀織之助※
井深茂太郎※
鈴木源吉※
(※印は自刃者)

なお、退却の途中に「多賀谷彦四郎」が逸れたとの原田の談話もあるが、多賀谷は原田隊の一人として斥候に加わっていたのではなく退却時にたまたま原田隊と合流し、その後更に逸れたものであるようなのであえて記載していない。

上の名簿は嚮導だった城取と半隊頭の原田の談を合わせたものより抜粋したもので、その他の資料でも総勢八名と上がっているので間違いないだろうと思われる。
しかし、この何処にも「高橋勝太郎」の名前はない。
では、原田克吉隊ではない残りの白虎士中二番隊士を挙げて確認してみることにする。

安達藤三郎/池上新太郎/石黒寅三郎/石田和助/石山虎之助/伊東悌次郎/
伊東又八郎/伊藤俊彦/飯沼貞吉/浮洲政/小野田尚四郎/片峯祐之進/
酒井峰治/坂井峰治/志賀与三郎/篠田儀三郎/庄田保鉄/多賀谷彦四郎/
竹村幸次郎/田中清三郎/津田捨蔵/津川喜代美/永瀬雄次/永野兵太郎/
成瀬善四郎/西川勝太郎/野村駒四郎/林八十治/原マ三郎/藤沢啓次/
間瀬源七郎/松原孫次郎/宮原三四五郎/向山仙吾/簗瀬勝三郎/簗瀬武治/
矢島八太郎/吉田錺之助/

ここで大きな疑問にぶち当たる。
手元にあるどの資料を見ても、白虎士中二番隊士の名簿の中に「高橋勝太郎」はおろか、「高橋」姓の者は含まれて居ない。
果たして、「高橋勝太郎」なる人物は実在したのだろうか。

それについての手掛かりは同じく前述の「※1」の部分にあった。
「勝太郎は晩年郡長をつとめ、大正十一年に没した人で、子の誠二郎は陸軍中尉で日露戦争で戦死し・・・」
この記述から「高橋勝太郎」の子の名は「高橋誠二郎」ということがわかる。
そこから資料をあたった。(この件については特に会津図書館のN様のご協力があったから見つけることが出来た。感謝しております。)
行き当たったのは「会津の秘録」という本の中にある「婚家高橋家のこと」「誠二郎とムツの結婚」の記述だった。
そこでは「高橋誠二郎」の父の名は「高橋勝太郎」ではなく、「高橋勝之助」となっている。
「勝之助」は嘉永六年三月二日生まれ、ちょうど白虎隊の隊士らと同年代だ。
「勝之助」は福良村の村長を大正六年より大正十年までの五年間務めたとも記載されている。
相田氏の記述に見る「勝太郎は晩年郡長をつとめ」というのは、これのことを指しているのかもしれない。
ちなみに「慶応年間会津藩士人名録」内に上げられた高橋姓の者を確認したが「高橋勝太郎」の名前はなかった。但し「高橋勝之助」の名前は中荒井組下に「井出 高橋勝之助」との記述があった。これが白虎士中一番隊の「高橋勝之助」と同一人物かどうかは今のところ不明である。

ではこの「会津の秘録」に出てくる「高橋勝之助」が「高橋勝太郎」であったとして、白虎隊士の名簿にこの「高橋勝之助」なる人物の名があるかを再度確認してみたい。
この名簿に「高橋勝之助」の名があれば、「高橋勝太郎」=「高橋勝之助」である可能性は大きくなる。

白虎士中二番隊には該当の者がいないことは前述したとおり。
では、白虎士中一番隊はどうか。
手元の資料を確認し、ついに名簿の中に「高橋勝之助」の名を見つけることが出来た。
これでハッキリした。
彼は戸ノ口原に出陣していた白虎士中二番隊士ではなく、若殿・喜徳公を守って城内へ残り、後に甲賀町口に引き上げてきていた容保公を援護して戦った白虎士中一番隊士であったのだ。

だがそうなると更に可笑しな事になってくる。
白虎士中一番隊は、八月二十二日、二十三日の戸ノ口原での戦いには全く参戦していない。
喜徳公を守って城内にあったのだから当たり前で、無論戸ノ口原の戦況を知っている筈は無い。
ならば日向内記が戸ノ口原で戦ったかどうかなどわかる筈も無ければ、原田隊に所属していて背炙山へ逃げたなどあろう筈も無い。
そうすると完全に話が変わってくる。

ならば相田氏が書き記した「高橋勝之助」の証言とは何だったのか。
考えられるとすれば主に以下のことだろう。

@高橋勝之助が嘘を語った。
A高橋勝之助が原田隊に所属していた者から聞いた話しを語った。

@の「高橋勝之助が嘘を語った」という場合、何故そんな必要があったのかが疑問として残る。
武勇伝を他人に語ることは往々にしてある(山川健次郎氏の滝沢本陣からの引き上げの話などは武勇伝的本人談として有名)が、今回の「勝之助」の談話は特に武勇伝として語るほどの内容ではない。
またこの「勝之助」の父・高橋勝平は七代藩主容衆(かたひろ)・八代容敬(かたたか)・九代容保(かたもり)の侍講も勤めたほどの人物で、「勝之助」自身も村長として晩年を過ごしたこともあり、とても平気で嘘を吐くような人物とは思われないし、わざわざ何の利も無いような虚言を言うとは考えにくい。

Aの「高橋勝之助が原田隊に所属していた者から聞いた話しを語った」と言う場合。
「高橋勝之助」は白虎士中一番隊の隊士であった。つまり二番隊に所属していた者の中には顔見知りや仲の良い者もいたかもしれない。
共に日新館に学んだ仲間であるはずだから、当然ともいえる。
当時一番隊の者は甲賀町口門外で戦った後城内へ引き上げ、生き残った二番隊の者も戸ノ口原から引き上げてきた大部分が城内へ入っている。
その後士中一番隊・二番隊の者で城内に居たものは籠城戦に臨み、日向内記の指揮の下、士中合同隊として再編制され約一ヶ月間西出丸の守備に当たった。
そこで二番隊の仲間とも再会しているのだから、もしかしたら戸ノ口原での様子も聞き及んでいたのかもしれない。

@ならば何とも言い難いが、Aならば「勝之助」の談話は「勝之助」自身の体験談ではなく、別の誰かの話を「勝之助」が語ったものと推定される。

更にここで注目すべき点は、冒頭に前述した内記についての「高橋勝太郎」の談話の中で、筆者である相田氏が「高橋勝太郎」の略歴を述べた後の中略部分「※2」に挿入した以下の一文である。
「この勝太郎氏が南町の太田弥兵衛氏と親戚なので時折訪問して戦争話をされた。太田家は代々藩の御抱鍛冶師で・・・(中略)・・・家柄である。勝太郎の談話の内容は・・・(後略)」
これを読む限り相田氏は「高橋勝太郎」から直接話を聞いたのではなく、太田家の弥兵衛か、あるいはその身内から「高橋勝太郎の談話」としてこの話を聞いた可能性が高い。
そうなれば、人の口を介するうちに「高橋勝之助」が「高橋勝太郎」になり、「聞いた話」が「勝太郎の話」になったということも考えられる。

現時点では@を完全に否定は出来ないが、この談話がAであったと仮定して話を進めたいと思う。
相田氏が記した「高橋勝太郎」は「高橋勝之助」の誤りで、この「勝之助」の談話については「勝之助」自身の体験談ではなく、仲間であった白虎士中二番隊の原田隊に属していた誰かの実体験談であった。それを「勝之助」が太田家の者に語って聞かせ、後に相田氏の耳に入るまでの間に「勝太郎自身の体験談」として伝わってしまった。

では、そう仮定した場合どういう事が考えられるだろうか?
まず気になるのはこの話が誰の実体験だったのかと言うことだろう。
では、一体誰の話だったのか。原田隊に所属していた誰かには違いないはず。
再度、原田隊の者を挙げてみよう。

半隊頭・原田克吉
嚮導・城取豊太郎
笹原伝太郎
遠山雄吉(雄午)
篠沢虎之助
有賀織之助※
井深茂太郎※
鈴木源吉※

このうち※印の三人は飯盛山での自刃者に名を連ねているので、飯盛山方面へ逃れたと考えられる。つまり「私は背炙山に登り」との証言に当てはまらないため除外する。
半隊頭である原田も、籠城戦に際して白虎隊の半隊頭より外れているため、この談話の主としては適切でないように思う。第一勝之助とは隊が違っていたのだから面識があった可能性は低く、年下で親しくも無い「勝之助」に戦況を語って聞かせたとは考えにくい。
そうなるとあとは「城取豊太郎」「笹原伝太郎」「遠山雄吉(雄午)」「篠沢虎之助」の4人に絞られる。
この4人のうち「勝之助」と仲の良かった者、或いは斗南へ移住した先で近くにあった者など、戊辰戦争後にも交流のあった者がいればその人の談話である可能性が高いだろう。

残念ながらそのあたりのことがわかるような記述が見当たらないため、もう少し資料をあたり、掘り起こしてみたいと思う。
何か分かったことがあれば、順次追加・更新していきたい。

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※この話は「会津医師会報 第5巻第7号 会津戦争史-七-白虎隊物語二/相田泰三 著」の記述を基にし、その記述が事実であると仮定した上での月城独自の考察です。これが総て真実であるという裏付は全く取れておりません。あくまでも「一説」であることをお含み置きください。

【参考とさせていただいたもの】
『会津医師会報 第5巻第7号』
『会津の秘録』
『慶応年間 会津藩士人名録』
『決定版 新選組・彰義隊・白虎隊のすべて』
『会津史談 第41号』
『史実 会津白虎隊』
その他関連書籍より