日向 真寿見に関する私的備忘録

以下は、月城が現在知っている限りの『日向眞寿見(真寿見)』に関する事柄の私的備忘録、つまり個人的なメモです。
色々な資料や書籍や雑誌などから拾い上げていったものが多くあり、また記憶違いもあるかもしれません。(部分的に省略部分もございます。)
わかる範囲、知っている限りを記載しておりますが、間違いが判明した場合はその時点で修正をすることとします。

現状分かっている範囲のことを、簡易年表に落とし込むことにしました。
『日向君招魂碑』の篆額をした榎本武揚氏との関係性(繋がり)が少しでも見えてくればと思い、関連のありそうな事柄も盛り込んでいます。
なお、元々北海道を開拓する『開拓使』の構想自体は榎本氏が持っていたもので、それに賛同した黒田清隆が推し進めたものと言っていいと思います。

【日向 眞寿見 簡易年表】

西暦 事      柄 詳       細
明治5年 1872 2 29日 山田清五郎、開拓使権判官に 静岡県士族の山田清五郎が十等権判官として開拓使に出仕、担当は算術掛(数学教師?)。
山田清五郎は榎本らとともに蝦夷を目指し、美嘉保丸に乗っていた人物と同一の人ではないかと思われる。
美嘉保丸は房総沖で台風に遭い、座礁・沈没して13名の犠牲者を出した。
ちなみに伊庭八郎もこの船に乗っていた。
3 榎本武揚氏、開拓使に仕官、出仕 同年1月6日に特赦出獄し、才能を買われて新政府に登用された。
その後、黒田清隆に乞われる形で、四等出仕として開拓使に仕官した。
12日 山田清五郎、九等出仕へ昇進
4 15日 開拓使仮学校開校 東京芝・増上寺にて開校。
入学したものは卒業後、私費生徒で5年、官費生徒で10年、北海道開拓に従事することが義務付けられていた。
9 19日 日向眞寿見、私費生徒拝命 青森県岩代出身(実際は斗南縣士族らしい)の山際永吾、加藤彦七(詳細不明)とともに、開拓使仮学校生徒の私費学生として入学を許可された。
この時はまだ電信生徒ではなく、開拓使仮学校生徒だったようだ。
21日 官費生徒を拝命 山際永吾と共に、官費生徒を拝命。
たまたま官費生徒枠に空きがあり、成績も申し分なかったからか?
明治6年 1873 3 14日 一時閉校となる 生徒のレベルが低かった、粗暴で羽目を外すものが多くいた、開拓使の財政破たん、或いは前記の複合的要因ではないかと言われているが、詳細な事実は不明。
一旦閉校となり、生徒も全員退学させられた。
4 21日 再び仮学校開校 この時眞寿見さんがどこへ在籍していたかの詳細は不明。
しかし後述のとおり電信生徒を申付けられたのであれば、生徒として在籍はしていたものと思われる。
であれば、順当に考えて仮学校生徒だったのではないかと考えられる。
名簿について 4月の時点で「作られた」らしき生徒名簿の真寿見さんの欄に記載された事項を転記しておく。
なお、「作られた」あとに追記や訂正の跡が散見されるため、4月現在の名簿ではないこともここに明記しておく。
『電信生徒』
・入校:明治6年10月11日入校
・拝命:明治6年10月4日
・本貫生国:青森県会津
・父兄引受:当使八等出仕 山田昌邦 神田錦町三丁目赤松海軍大丞邸内
・氏名:士族「同上」日向真寿見
・年齢:明治6年10月 19年4カ月
身元引受人の『山田昌邦』とは、前述の数学教師・山田清五郎のこと。
なお、仮学校生徒として一緒に入学を果たした『山際永吾』の身元引受人は榎本武揚の兄となっている。
10 4日 電信生徒となる どういった理由であるかは不明だが、この日『電信生徒』となることを申付けられている。
11日 電信生徒として入校 12時に入校と書かれている。
12 26日 電信技術第二級となる 電信寮より達しがあり、電信技術二級となる。
電信技術第二級は資格か?
明治7年 1874 2 31日 電信技術第一級となる 電信寮より達しがあり、電信技術一級となる。
4 24日 本日より日本橋電信局詰 今日から日本橋電信局にて勤務
5 6日 本日より日本橋電信局詰 今日から日本橋電信局にて勤務
7 7日 電信機試験のため出張 開拓使より指令があり、邨井一郎及び日向眞寿見に電信機の試験のため、北海道出張が申付けられる。
9日 北海道へ出立 行先は札幌ではなく函館だと思われる。
20日 ヘボン小字書を章典として賜る 電信生徒15名のうち10名が、勉強に励んでいることに対して賜った。
ヘボン小字書は、和英辞典的なもの。
11 6日 室蘭局への配属が決定 この時点で既に室蘭局へ配属されていたが、この日正式に配属が決定。
電信生徒のうち上位者の14名が福山、函館、森、長万部、室蘭、札幌、小樽の各局に2名ずつ配属された。
この時点で等外下級との記述あり。
20日 等外中級相当へ昇級 記述の中には「生徒14名」と書かれているものの、なぜか13名の名前しかなく、その中に眞寿見さんの名前はない。
この14名は前述の配属された者のことであるので、漏れた1名が眞寿見さんであると思われる。
さらに11/6時点の級数が等外下級であるため、この日等外中級に昇級したと思われる。
明治16年 1883 3 4日 真寿見さん御結婚 入籍願の日付によれば、明治16年3月4日に入籍。
函館在住の山村友三郎の姉・玉との縁組。
電信局勤務の中で知り合ったものかと思われる。
15日 長女・操 誕生 え?入籍の11日後!?
これって所謂できちゃった婚って・・・ヤツですかね・・・;
明治18年 1885 11 4日 内記氏、身罷る 午前1時ごろ、父である日向内記氏が死去
9日 内記氏、埋葬 午後1時ごろ、喜多方の字小田墓場に埋葬
14日 真寿見さん家督を継ぐ この日に日向家の長男として家督を継いだ。
そのためか、通説では日向内記氏の死去した日が11月14日ということになっている。
当時は耶麻郡喜多方町7741番地に在住。
12 13日 次女・常盤 誕生 一般的に三女とされているが、生年を見ても次女ということが明らか。
日付は間違っているかもしれない・・・。
明治20年 1887 3 1日 三女・松榮 誕生 三女の松榮が誕生
明治21年 1888 10 22日 次女・常盤 死去 函館・実行寺に残る墓碑にて確認、死因は不明。
一年後の庄内地震との関連が気になるところ。
日付が1年違っているということは・・・ないかな;
明治22年 1889 10 22日 庄内地震の被害に遭う 当時は酒田に住んでいたようであるので、被害も激しかったと思われる。
しかし家族は全員無事だった様だ。
明治23年 1890 仙台電信局に勤務 電信建築技手として駐在。
明治27年 1894 日清戦争に従軍 入隊・従軍の時期は不明。
日清戦争において、第一兵站部に配属され、軍用電線を架ける仕事に従事した。
10 次女・常盤の墓を建立 函館・実行寺に常盤の墓を建立。
従軍にかかる一時金でも出たのだろうか?
明治28年 1895 3 30日 真寿見さん、身罷る 日清戦争に電信建築技手として従軍中、病気で死去。享年43歳(42歳とも)。
平安道龍川(現在は北朝鮮領)の陸軍龍川病院で死亡、義州陸軍墓地に埋葬。
5 9日 真寿見さんの死亡通知が発行 この日になってやっと真寿見さんの死亡通知が出された。
明治29年 1896 3 30日 日向君招魂碑、建立 仙台の青葉神社境内に日向君招魂碑が有志の手により建立される。
碑文は大槻如電氏、篆額は当時農商務大臣だった榎本武揚氏。

【日向 眞寿見(ヒナタ マスミ)/(真寿見/眞壽見/真壽見)】
・嘉永六年一月十九日生まれ。日向内記長男で、ミヱの弟。
・会津戦争時には十六歳で、白虎隊へ入隊の年齢だったが、十四の時に『若殿様御相手』として選ばれ、藩主容保の養子・喜徳の側に仕えていたため入隊していない。だが籠城戦には参加したらしい。
・明治18年11月4日に父・内記が身罷ったため、11月14日に日向家の家督を相続した。(当時は耶麻郡喜多方町7741番地在住)
・函館・実行寺に『日向君招魂碑』なるものが現存するが、その碑はこの真寿見氏の碑で、彼の一周忌にあわせ明治二十九年三月三十日に有志者の手により仙台(碑文によれば青葉神社脇)に建立され、紆余曲折あって今は函館の実行寺に建てられている。篆額は当時農商務大臣だった榎本武揚、碑文の撰と書は大槻修如電。
・真寿見氏は軍用電線を架ける仕事のために日清戦争に従軍し、平安道龍川(現在の北朝鮮)というところで悪疫を患い、明治二十八年三月三十日に没している。享年43歳。
・『日向君招魂碑』が青葉神社より函館実行寺へ移されたのは、真寿見氏の墓が実行寺にあることと真寿見氏の後裔に当たる方が函館に在住であるからというのが理由ではないかと言われているようです。
・実行寺にある真寿見氏の墓碑には『真浄院寿海日見居士』と戒名が刻まれているとの噂がありましたが、実行寺に『日向』と名のつく墓碑は『日向家』のものと、二女『常盤』のものの2基しかなく、そのどちらにも件の戒名は刻まれていませんでした・・・。
・真寿見の妻は山村家のタマ、長女は操、三女は松榮で二女の常盤は早世している。また長女の操は後に我孫子又太郎なる人物と結婚し、長女・寿子と長男・真一の二人の子をもうけている。子らの名は父・真寿見より一字を拝したのだろうと思われる。次女の松榮は山本という姓になり、どちらも函館に住んでいたと思われる。

【日清戦争従軍について】
色々と検索しているときに『アジア歴史資料センター」というサイトへ行きあたりました。
こちらで日向眞寿見について何か資料はないかと検索をしたところ、以下の5つの資料が出てきました。

1)件名:2月24日参謀総長彰仁親王発 陸軍大臣伯爵西郷従道宛 電信建築技手1名補充方の件(出典/JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06061299700、大本営・日清戦役書類綴・M28・15・141))
2)件名:大本営より電信建築技手1名補充方の件(出典/JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06021997500、陸軍省・日清戦役日記・M28・13・89))
3)件名:運輸通信部より電信建築技手日向真寿見病死報告の件(出典/JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C06022295000、陸軍省・日清戦役戦役日記・M28・23・99))
4)件名:故日向電信書記返納金に関する件(出典/JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03031030300、陸軍省・壹大日記・M29・11・14))
5)件名:返納金に関する嘆願書の件(出典/JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03031069100、陸軍省・壹大日記・M29・3・7))

まずは(1)の資料から。
明治28年2月24日に発行された書類、つまり眞寿見さんが亡くなる35日前に書かれたものです。
2月24日に兵站総監・川上操六より参謀総長・彰仁親王宛てに出され、同2月24日に参謀総長・彰仁親王の名で陸軍大臣・西郷従道宛てに出されたものです。
この時点で『右臨時兵站電信部附建築技手日向眞寿見疾病ニ罹リ容易ニ快復之見込無之ニ付』眞寿見さんの代わりとなる電信建築技手の補充の依頼が出されました。
亡くなるひと月以上も前に、既に「容易には回復しないだろう」とみなされていたようです。

(2)の資料は、(1)の書類を受けての回答についての書類でした。
2月27日には逓信大臣宛てに補充についての照会がなされ、3月2日には陸軍省より大本営へ回答されているようです。
そしてその回答の前日3月1日に『東京郵便電信局在勤 電信建築技手 敷根清範』へ『臨時兵站部電信部附ヲ命ス』との命令が下りました。
眞寿見さんのかわりに日清戦争へ従軍することとなったのが、この『敷根清範』という人物のようです。

(3)の資料は、運輸通信部より出された眞寿見さんの病死報告の書類です。
残念ながらどこにも病名は書かれておらず、死亡原因は不明のまま。
ただ埋葬地についてはすこしだけわかりました。
この書類によれば、『本年三月三十日朝鮮国龍川病院ニ於イテ病死』したので『義州陸軍埋葬地ヘ埋葬』したということらしいです。
その後遺骨が日本へ戻されたのかどうかはわかりませんが、当時、埋葬する際は遺骨がどこの誰であるか後からでもわかるようにして軍専用の埋葬地へ埋葬し、遺髪などを遺族へ先に返す仕来たりだった様で、後に遺骨が戻されることが多かったようです。
個人的には眞寿見さんの遺骨が家族のもとへと戻ってきていることを切に願っています。
さて、この病死報告についての続きです。
明治28年5月9日に臨時南部兵站電信提理 吉見精より死亡通知が出されています。
その死亡通知に『山形縣酒田漆畑町八十番地居住福島縣士族 逓信省電信建築技手 日向真寿見』と書かれているので、明治28年5月当時、タマさんとお子さんは山形県のこのご住所に住んでいらっしゃったのでしょう。
同5月9日に運輸通信長官 寺内正毅より陸軍次官 児玉源太郎への通知案が作られ、最終的に陸軍省へ提出受付けられたのが5月20日になるのでしょうか。
日付が結構ずれています。
死亡通知についても、当時は直接の上役(今回だと逓信省?)などから家族へ通知が行く場合と、その通知が出される前に、所属していた隊から直接家族へ通知が行く場合とあったようです。
今回もはっきりした日付はわかりませんが、書類を見る限り、どちらにしてもご家族へ通知されたのは5月になってからのようです。

(4)と(5)の資料についてです。
眞寿見さんが3月30日に亡くなり、5月以降にご家族へ死亡通知が届いたのだろうと上記資料から推察しましたが、もうひとつこの資料からもそれが読み取れます。
というのも、この2つの資料は『俸給過渡返納金』に関する嘆願書などが含まれているからです。
3月30日に眞寿見さんは亡くなったわけですが、4月も5月も誰も亡くなったことを知りませんでした。もちろんお給料も通常通り支払われ、ご家族も通常通りそれで暮らしていたと思われます。
ところが5月以降に突然眞寿見さんの死亡通知が届き、後日4・5月分給料を払いすぎたのですぐに返納するようにとの2通の通知が届いたようです。
しかしタマさんにそんな余裕はとてもなかったようで、2か月分の一括返納ではなく、1か月分だけ先に返納するので、あとの1か月分40円は4年程待ってもらえないかとの嘆願書を提出したようです。
それを読み、事情を確認した北海道廰官 原保太郎が、申し副えの文書を付けて返納金の一括納入を待ってもらえるようにと、陸軍大臣へ書類を送ってくださったようです。
これにより、嘆願を聞き届け、北海道廰が責任を持って徴収しなさいとの通知が来ました。
…よかった、よかった…。
この書類に添付されている嘆願書や身元取調書などに目を通す限り、とにかく生活に余裕はなかったようなのです。
山形県酒田町に住んでいた頃(従軍日が不明のため、眞寿見さんが日本にいたかどうかは不明)に震災に遭って家を焼け出され、その後従軍していた眞寿見さんが朝鮮で病死し、同じ年の11月27日に眞寿見さんの祖母(ということは内記さんの御母堂・ミヲさんか?)が病死、母子3人で生活していたものの生計が立たず、弟・山村友三郎を頼って函館市幸町1番地へ移るも、またもや明治29年8月26日の函館大火災に遭って何もかもを失ってしまったとのこと。
しかもタマさんは、数年前から体調を崩して病床に伏すことも多かったとか、病弱であったのか心身ともに弱っていらしたのか…他人事と思えないところもあって泣けてきます。
本当に苦労と不幸の連続だったようです…。


【今回の資料で分かったこと】
・亡くなる1か月以上前に、重症であると判じられていたらしいこと(その時点で病の床に臥していたということ)
・眞寿見さんが亡くなった場所は現・北朝鮮領内で、中国との国境近くの『平安道龍川』というところの陸軍龍川病院、埋葬されたのはほど近い場所にある義州陸軍墓地
・死亡通知がだされたのは明治28年5月にになってから
・明治28年当時の従軍電信建築技手1か月の俸給は40円
・山形県の酒田町に住んでいた頃に、地震による火災の被害に遭っている(明治27年10月22日の庄内地震(酒田を中心に大きな被害を出した)ではないか)
・眞寿見さんの祖母のであり、内記さんの御母堂・ミヲさんは明治28年11月27日に山形で亡くなっている
・タマさんが山形から函館へ移ったのは、眞寿見さんと祖母・ミヲさんが亡くなった後で、引っ越し後に明治29年8月26日の函館大火災に遭っているので、明治28年11月27日〜明治29年8月26日までの間

【KOKO様よりの情報】2006.04.26
【日向真壽見】ひなた・ますみ、殉難者。旧会津藩士。
藩校日新館に学び、藩候の小姓となる。戊辰の役に会津籠城の際、囚われて東京に檻致され赦されて開拓使に仕え、のち工部省電信技手となり、明治二十三年仙台電信局に勤務す。
日清の役に第一軍兵站部に属し、出征勤務中、明治二十八年三月三十日悪疫に罹り朝鮮に於て没す。
享年四十八(43の間違い?)、翌年三月に僚友相謀り、大槻如電に文を請い、招魂碑を仙台青葉神社境内に建つ。(出典/仙臺人名大辭書・昭和八年刊)

平成14年5月7日に伊達政宗が祭神の青葉神社をこの碑の確認のため訪ねました。
宮司の片倉さん(片倉小十郎の末裔)に碑の存在をお聞きしましたら、確かにあったが、30年くらい前に御子孫の方が引き取られたとのお話しでした。
その後の碑のゆくえは神社では知らないとのことでした。
また、その碑は長らく倒されてあったとのお話でした。

【御家族について】
ちょっと一覧にしてみました。
不明点も多いのですが…。
氏名 読み 続柄 性別 生年月日 享年 その他
日向 眞寿見
(真寿見)
ひなたますみ 嘉永6年1月19日 明治28年3月30日 43歳
日向 タマ
(旧姓・山村)
ひなたたま 安政3年5月19日
日向 操 ひなたみさお 長女 明治16年3月15日
日向 常盤 ひなたときわ 次女 明治18年12月  明治21年10月22日 2歳 明治27年10月建立の墓が
函館実行寺に現存
日向 松榮 ひなたまつえ 三女 明治20年3月1日
日向 ミヲ ひなたみを 祖母 文化8年1月14日 明治28年11月27日

開拓使関連を調べていけば、眞寿見さんの若かりし頃のこととか出てきそう(というか、名前は見つけた)なんですが、まだまだ調査不足です。
おいおい増やしていけたらなと思っています。


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【参考とさせていただいたもの】
『幕末・会津藩士銘々伝 上』新人物往来社/小桧山六郎・間島勲 編
『鶴ヶ城を陥すな 凌霜隊始末記』謙光社/藤田清雄
『矢野原与七 凌霜隊戦記 辛苦雑記 改訂版』郡上史談会/野田直治・白石博男 編
『会津人が書けなかった会津戦争』「白虎隊隊長日向内記の実像」/牧野登
『みちのく逸聞』「旧会遺聞-大湯居住者の活動-」伊吉書院/中村成喜
『北大百年史』/北海道大学
その他関連書籍より