日向 内記に関する私的備忘録

以下は、月城が現在知っている限りの『日向内記隊長』に関する事柄の私的備忘録、つまり個人的なメモです。
色々な資料や書籍や雑誌などから拾い上げていったものが多くあり、また記憶違いもあるかもしれません。(部分的に省略部分もございます。)
わかる範囲、知っている限りを記載しておりますが、間違いが判明した場合はその時点で修正をすることとします。

【日向 内記(ヒナタ ナイキ)/諱(いみな)を次法という】
・生 1826年(文政9年)1月14日〜没 1885年(明治18年)11月4日
(通説では11月14日没となっているが、実際に身罷ったのは11月4日で、長男・真寿見が家督を継いだのが11月14日)
・700石取
・本一之丁諏方通り角に屋敷あり
・日向三郎右衛門の長男
・戊辰戦争時は42歳で、白虎士中二番隊中隊頭を務めていた。(隊頭は隊長と同義語)
・士中隊の中隊頭の格式は番頭(=家老・若年寄に次ぐ席次で武官の最高位)であった。つまり必ずしも前線へ出て先頭に立って指揮するという立場ではないらしい。
(藩主の護衛の任についていた子どもの隊の隊長だったということで、あまり重要な位置にあったとみなさない向きもありますが、子どもの隊とはいえ上位藩士の子弟が主だった士中二番隊の隊長を務めていたこと、藩主・容保の『護衛』として滝沢本陣へ出ていたことなど、決して蔑ろにされていたわけではないと思っているんですが。藩主の護衛をどうでもいい者に任せるとは思えないし。)
・いつのことかは不明だが、日新館の館長を務めたこともあったらしい。その縁で白虎士中二番隊の隊長になったとも言われている。(詳細はまた後日調べたいです)

【略 歴】
・禁門の変に番頭組の組頭として参加。戦功をあげたと言われている。
・鳥羽伏見の役の後、朱雀士中二番隊中隊頭に任命される。
・山川大蔵の後任として日光口の砲兵一番隊の隊頭に任命される。
・1868年4月20日今市にて、会津救援の為に郡上藩を出てきた『凌霜隊』と合流。
・この時、会津の情勢を伝えたり、郡上藩からの使いで凌霜隊の速水氏が会津へ向かうときにも色々と世話をしたらしく、凌霜隊の面々からは非常に評価が高い。またその凌霜隊の資料から日向内記の人となりが窺える。
・6月下旬から7月上旬頃、藩命にて会津へ戻り「白虎士中二番隊中隊頭」となる。(藤澤正啓の記した「会津藩大砲隊戊辰戦記」に「宇都宮戦では味方の加勢のために来たにもかかわらず、味方劣勢の風説を簡単に信じて退却を命じた(日向隊長の)采配に対して、砲兵隊内で憤慨する者も少なくない」というような記述があり、それを踏まえてか砲兵隊での戦功が思わしくなかったことによる更迭ではないかと見る向きもある)
・8月22日、白虎士中二番隊を指揮して滝沢本陣へ向かう。その後戦況が思わしくないため白虎士中二番隊の出陣も決定、先発・後発と隊を分けて戸ノ口原へ出陣。
・8月22日夜、隊を離れる。飯沼貞雄(貞吉)氏の証言によれば『食糧調達』、ただし『食料調達』というのは飯沼氏の証言のみ。同じく白虎隊士で生き残った酒井峰冶の手記には『食料調達』とのくだりは出てこない。月城的には佐川官兵衛らのあった本陣に詰めており、そこで苦しい戦況に対する戦術を論じ合っているうちに未明より戦が勃発、戻れなくなったと勝手に妄想。(思った以上に早い開戦に慌てて退却命令を下したものの、既に陣は崩れ連絡系統が働かず隊士は散り散り・・・という感じかな)
・8月23日鶴ヶ城へ入り、籠城戦へ参加。白虎士中一番・二番隊士を一つにまとめ、白虎士中合同隊として西出丸を守備。
・9月5日(6日とも)鶴ヶ城へ入城してきた郡上藩・凌霜隊と合流、共に西出丸を守備。激戦を戦い抜く。
・9月23日、鶴ヶ城落城。会津藩は降伏した。
・謹慎生活の後、明治3年冬に陸路で斗南へ移住。
・斗南移住に先立ち、明治3年9月、小姓・富田権造重光に抱きかかえられて五戸へ向かった斗南藩主・松平容大(当時二歳)の護衛役として一度斗南へ赴いている。その後、長女・ミエ(十八歳)と長男・真寿見(十六歳)も同行し、再度五戸へ赴いた。この時は斗南藩の財政に関係する資金の輸送が主目的であったらしい。その後も協力者を増やし、内密に斗南藩を支えるべく資金調達に奔走した。
・後にミエの夫となる中村富造は藩主・容大の護衛をして五戸へ来た人物で、ミエが彼に嫁いだのはその縁か?
・明治6年に会津へ戻り、喜多方に住む知り合いを頼って喜多方へ居を構える。
・喜多方移住は明治4年との説もあるが、どうやらそれは内記氏が長男・真寿見を連れて喜多方の五十嵐家に滞在していた時のことのようで、その頃内記氏と真寿見氏は任務遂行につとめたとミエの後裔である中村家に伝わっているらしい。その任務とは会津藩再興のための地固め・偵察などであったのではないかと言われている。
・喜多方では定職につかず、明治18年11月4日、裏切り者、卑怯者の謗りを弁解することも無く60歳でこの世を去る。

【家族など】
・墓は喜多方市北町の満福寺というお寺にあり。墓石には「日向代々之墓」「大正十三年七月 日向栄吉建立」と刻まれている。
・日向栄吉とは、内記の次男・斤次(きんじ?)の長男にあたり、大阪商船の一等機関士だった人。
・関東学院大学学長であった坂田祐(たすく)は、内記の長女・ミエと会津藩士・中村富造の次男。
・長女ミエは山川健次郎に嫁ぐ予定であったらしいが、斗南へ移住後中村富造のもとへ嫁いでいる。詳細は不明。
・明治十年頃、母、妻、子どもら七人で喜多方に居住との記述あり。喜多方では定住地は無く、どうやら知り合いの家を転々としていたらしい。
・先妻との間には長女・ミエと長男・真寿見、後妻との間に二男・斤次と三男・寿松、四男・一の計5人の子があった。
・母は山内家より嫁したミヲ、後妻は三宅家から嫁したリサ、先妻については不明。(最初の妻は函館で戦死した会津藩士・諏訪常吉の一族の女性との情報もあり)
・柴五郎の母は日向家の縁者。
・内記の長男・真寿見(ますみ)の後裔にあたる方が、現在函館に在住とのこと。

【長男・日向真寿見について】
・長男の真寿見は嘉永六年一月十九日生まれ。会津戦争時には十六歳で、白虎隊へ入隊の年齢だったが、十四の時に『若殿様御相手』として選ばれ、藩主容保の養子・喜徳の側に仕えていたため入隊していない。だが籠城戦には参加したらしい。
・函館・実行寺に『日向君招魂碑』なるものが現存するが、その碑はこの真寿見氏の碑で、彼の一周忌にあわせ明治二十九年三月三十日に有志者の手により仙台(碑文によれば青葉神社脇)に建立され、紆余曲折あって今は函館の実行寺に建てられている。篆額は当時農商務大臣だった榎本武揚、碑文の撰と書は大槻修如電。
・真寿見氏は軍用電線を架ける仕事のために日清戦争に従軍し、平安道龍川というところで悪疫を患い明治二十八年三月三十日に没している。享年43歳。
・『日向君招魂碑』が青葉神社より函館実行寺へ移されたのは、真寿見氏の墓が実行寺にあることと真寿見氏の後裔に当たる方が函館に在住であるからというのが理由ではないかと言われているようです。
・実行寺にある真寿見氏の墓碑には『真浄院寿海日見居士』と戒名が刻まれているとの噂がありましたが、実行寺に『日向』と名のつく墓碑は『日向家』のものと、二女『常盤』のものの2基しかなく、そのどちらにも件の戒名は刻まれていませんでした・・・。
・真寿見の妻は山村家のタマ、長女は操、三女は松榮で二女の常盤は早世している。また長女の操は後に我孫子又太郎なる人物と結婚し、長女・寿子と長男・真一の二人の子をもうけている。子らの名は父・真寿見より一字を拝したのだろうと思われる。次女の松榮は山本という姓になり、どちらも函館に住んでいたと思われる。

【KOKO様よりの情報】2006.04.26
【日向真壽見】ひなた・ますみ、殉難者。旧会津藩士。
藩校日新館に学び、藩候の小姓となる。戊辰の役に会津籠城の際、囚われて東京に檻致され赦されて開拓使に仕え、のち工部省電信技手となり、明治二十三年仙台電信局に勤務す。
日清の役に第一軍兵站部に属し、出征勤務中、明治二十八年三月三十日悪疫に罹り朝鮮に於て没す。
享年四十八(43の間違い?)、翌年三月に僚友相謀り、大槻如電に文を請い、招魂碑を仙台青葉神社境内に建つ。(出典/仙臺人名大辭書・昭和八年刊)

平成14年5月7日に伊達政宗が祭神の青葉神社をこの碑の確認のため訪ねました。
宮司の片倉さん(片倉小十郎の末裔)に碑の存在をお聞きしましたら、確かにあったが、30年くらい前に御子孫の方が引き取られたとのお話しでした。
その後の碑のゆくえは神社では知らないとのことでした。
また、その碑は長らく倒されてあったとのお話でした。

【簡単な系図(省略あり)】

ミヲ ===== 日向
(山内家) 三郎右衛門
後妻 リサ ============ 内 記 =============== 先妻 
(三宅家) 諏訪氏女
 ┌─ ──┬── ── ─― ──┐   旧会津藩士
四男  三男 寿松 二男 斤次 長男 真寿見  長女 ミエ ======= 中村富造
(本名/平野吉重)
息子一人有 長男 栄吉 娘三人有 二男   
他に娘一人有 (坂田家) 中村家は他に
四人の息子有

【極々個人的主張】
結果的に部下である『白虎士中二番隊士』を置き去りにする形となったことは事実です。
それは決して否定はしません。
けれど『食糧調達と偽り、白虎隊を置き去りにして敵前逃亡した』とするのだけは、どうにも勘弁ならんのです。
逃げた』と言われるのはさすがに我慢できない。何かしらか理由があったのではないかと。
逃げた』『見捨てた』そういう風に解釈されているのを見聞きすると、本当に胸が痛む。
現代において一般に伝わっている『部分的な話』ばかりを捉えていては、見えてこないこともあると知って欲しいのです。

日向内記という人は、本当に部下思いの人だったようです。
戊辰戦争が起こるよりも以前のこと、部下やその同僚たちの訴えを聞いた彼は、田中源之進と共に、処罰対象となった部下を庇って上層部へ申し立てをしました。
『部下の吉川常五郎は処罰対象となるような者ではないので許して欲しい、それが叶わないなら自分らがかわりに罰を受けてでも殿様へ申し上げます』と、何度も申し立てたということでした。
結局吉川常五郎の所行は事実で、処分は相当であったらしく、内記隊長と田中源之進は申し立てをした誤りを認め、二十日間蟄居したようです。
つまり何が言いたいかというと、日向内記という人が、どれだけ部下思いであったかということ。
部下らの言のみを鵜呑みにして申し立てをしたのは、確かにあまり褒められる事ではないかもしれないけど、それだけ部下を信頼して大事にしていたということだと思うのです。

また砲兵隊の隊長を務めていた時のこと、隊士の評判が宜しくなかったと略歴内に記載しましたが、血気逸る隊士達とは別の視点で隊長として冷静に戦況を見極め、衆寡敵せずと引いたのではないか、それは部下の血を無益に流させまいとしたからではないかとも考えられます。
とはいえ、砲兵隊の隊士はこれまで激戦に次ぐ激戦を潜り抜けてきた猛者の集まりのようですし、全滅覚悟で前へ出たかったのかもしれません。
もしそうならば、部下を無闇に死なせまいとした内記隊長とは全く逆の考えですし、その辺の気持ちに温度差があったと言えるかもしれません。

ついでにそれに関連するような話を書いておきます。
凌霜隊の一人、矢野原与七の残した『辛苦雑記』に、会津藩士・小山田伝四郎隊長(5月以降、凌霜隊は小山田の指揮下に入っていた)のことを「此の人、後を構はず真先に進みたる故、頂の押勢にも構はず。先へ進むは勇のやうに見ゆるども不策也」と書いたくだりがあります。
これは大内峠の激戦のことを書いたもので、この小山田隊長は随分と勇猛果敢な人だったらしく、先頭に立って敵を迎え撃つタイプのようでした。
ですがその戦い方はこの大内峠では逆に不利となり、後方の守備を疎かにした結果(勿論色々な事象が重なった結果であり小山田隊長ひとりが悪いわけではないのですが)、大敗を喫することになりました。
『先へ進むは勇のやうに見ゆるども不策也』この言葉が凌霜隊の考えを如実に物語っているように思います。
つまり凌霜隊が欲するのは打って出る時と引き際を見極めて、指揮する隊長。逆に砲兵隊が欲していたのは命を顧みず、それでも前へ突き進むような勇猛果敢な隊長。
多分ここが、凌霜隊における内記隊長の評価と砲兵隊でのそれが違っている理由ではないでしょうか。
上記のことを考えてみて、やはり内記隊長は部下の命を粗末にするような人ではないと改めて思います。

そんな人が『白虎隊を見捨てた』と思われるのは心外ですし、そう言われ続けたとしたなら、彼の心痛は如何許りだったかと思わずにはいられない。
彼自身がそのことについて弁明・弁解した記録は一切ないし、彼の手記も伝わってはいない。(彼らしいといえば彼らしいかも・・・)
ただ真実は闇の中とはいえ、悪戯に貶める風潮だけはいただけないなぁと、月城は学生時代よりずっと思い続けてきたのでした。

【極々個人的妄想】
戸ノ口の側の本陣に佐川官兵衛らが詰めていたことは事実で、また23日に入城した際、佐川らと日向内記隊長が一緒だったらしいことが伝わってる。
また、遅れて入城してきた白虎士中二番隊半隊頭の原田克吉に「何ぞ、部下を置き去りに云々」と日向内記隊長が詰め寄られたとき、詰め寄られた本人ではなく、傍らにあった佐川官兵衛が「過ぎたことを言っても云々」と宥めたという話が残っている。
それらから考えても、内記隊長は本陣に詰めていた可能性が高いし、佐川官兵衛に付き従い入城した可能性も考えられる。
或いは日向内記隊長の入城それ自体、佐川官兵衛の指示だったかもしれない。(だからこそ、多少の責任は自分にもあると思った佐川が原田を宥めようとしたのかも・・・?)

さらに最終的な決断が遅すぎたのか、はたまた連絡系統が上手く機能しなかったのかは定かではないが、実際のところ前線への指揮は上手く行っていなかったのだろうとも思う。
そして何より、あの戦況では戸ノ口に布陣していた自軍の者は撤退してきているだろうと本陣にいた者は誰もが判じ(その考え自体が甘かったのだろうが・・・)、何より『藩主護衛』が先決として引いたのではないかと思う。(あの状況で『藩主護衛』を優先することは決して間違いじゃないし)

最近思うこと。
それでも内記氏は、自分が藩のために後半生を生きられたことを誇りにしていたのかもしれない。
例えそれが人目に触れない、地味な活動であったとしても。例えそれが報われ無いような事だとわかっていたとしても。
そして間違いなく、はからずも死へ向かわせることなった部下への悔恨も胸に秘めていたと。
だからこそ、影に徹したのだと。そういうふうに思うのでした。

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【参考とさせていただいたもの】
『幕末・会津藩士銘々伝 上』新人物往来社/小桧山六郎・間島勲 編
『鶴ヶ城を陥すな 凌霜隊始末記』謙光社/藤田清雄
『矢野原与七 凌霜隊戦記 辛苦雑記 改訂版』郡上史談会/野田直治・白石博男 編
『会津人が書けなかった会津戦争』「白虎隊隊長日向内記の実像」/牧野登
『みちのく逸聞』「旧会遺聞-大湯居住者の活動-」伊吉書院/中村成喜
その他関連書籍より